言葉にできないものと、言語化ブームの裏側

言葉にできないものと、言語化ブームの裏側

ここ数年、「言語化」という言葉をよく耳にします。

SNSでも、ビジネスの現場でも、「思考を言語化しよう」「感情を言語化して整理しよう」といった表現を目にしない日はないほどです。

人は昔から、言葉を使って世界を理解し、自分の心のありようをたしかめてきました。

しかし、「言語化」という行為そのものが、ここまで意識的に語られるようになったのは最近のことです。

では、なぜいま「言語化」がこれほど注目されているのでしょうか?
その背景には、複雑で変化の速い社会の中で、人が抱える「安心したい」という切実な欲求があります。

言葉にして整理すると、世界や自分をつかめたように感じられ、一時的に心が落ち着きます。
その“わかった気持ち”が、いまの時代に求められている安心の形なのだと思います。

目次

言葉で切り取るということ

私たちは、言葉にすることで思考や感情を他者と共有できます。
曖昧だった感覚に輪郭が生まれ、扱いやすくなるという点では、確かに言語化は便利です。

ただ、言葉にした途端に、その感情は「言葉が表せる範囲」に押し込められてしまいます。

それは、地図を描くときに見やすくするために細部をあえて捨てる行為にも似ています。
見通しはよくなるけれど、本当の複雑さは削ぎ落とされてしまうのです。

たとえば「寂しい」という一語には、懐かしさや孤独だけでなく、安心や期待、諦めのような感情さえ混ざっていることがあります。実際、日常の中でもこうした“混ざり合った感情”を経験する瞬間があるでしょう。

  • 誰かと別れたあと、駅までの帰り道で胸がふっと空くとき
  • 楽しかった旅行が終わった夜、静けさが急に押し寄せるとき
  • 忙しい日が続いた週に、家に戻って荷物を置いた瞬間、理由のない寂しさが広がるとき

これらは全部「寂しい」と言えますが、実際の内面ではそれぞれ違う感情が生まれています。
名残惜しさが混じっていることもあれば、安心と疲れが入り混じっていることもある。
同じ言葉でも、感情の“中身”は人や状況によって大きく違うのです。

けれど、私たちはその複雑な揺れを、一つの言葉へとまとめてしまう。
言葉にすれば説明しやすくなるものの、内側の細かなニュアンスはどうしても削ぎ落とされてしまうのです。

ヴィトゲンシュタインの指摘

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインのイメージの油絵

哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の最後に次の一文を残しました。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」

“語りえぬもの”とは、美しさや倫理、意味といった、説明や数値化に馴染まない領域のことを指します。そしてヴィトゲンシュタインは、人間が言葉で語れるのは“事実として整理できるもの”に限られると考えました。

そう考えると、言葉で描ける世界は、私たちが生きている世界全体のごく一部にすぎないことがわかります。

この言葉が今も引用され続けるのは、私たちがまさに“言葉にできないもの”を軽視しやすい環境に生きているからかもしれません。

効率や再現性が重視される社会では、説明できないことは価値が低いと見なされがちです。

しかし、多くの人が大切にしているはずの「なぜか惹かれる」「理由は説明しにくいけれど大事だと思う」といった感覚は、この“語りえぬもの”に属していて、言葉にしにくいこの部分にこそ、人の価値観や感性の核が宿っています。

それでも現代の私たちは、説明できないものをどこか居心地悪いものとして扱い、本来は大切にすべき“言葉にならない領域”が後回しにされてしまう。

そうした環境で暮らしているからこそ、私たちはなおさら「言葉で説明できるもの」に安心を求めるようになります。

ここに、いま「言語化」が流行している理由の一端があります。

言語化が流行る理由

「言語化」を求めてしまう背景には、社会そのものの構造的な変化もあります。

情報量が爆発的に増え、SNSでは誰もが意見を発信できるようになった昨今。
企業の現場でも、「伝える力」や「論理的に説明する力」が評価軸として重視され、個人にも同じ能力が求められています。

こうした環境では、「自分の考えをはっきり言える人」が優位に立ちやすい一方で、言葉にうまくできない人は置いていかれるような不安を抱えやすくなります。
その結果、「言語化すること」自体が目的のように扱われる場面が、どうしても増えていきます。

もう一つの要因は、変化の速さです。
正しさが不断に更新される時代では、自分の立場や価値観の“足場”を見失いやすくなります。
言語化は、そうした揺らぎの中で自分を保つための、一時的な秩序の回復行為として働きます。

言葉にまとめることで、自分がどこに立っているのか、いま何を感じているのかを確認できる。
その安心感が、いまの社会の中で強く求められているのだと思います。

言語化の「安心」と「限界」

モヤモヤした感情を文章にしたり、誰かに話したりすると、私たちは自分を理解できたように感じます。
言葉によって曖昧さに輪郭が生まれ、「これが自分の本音だ」と納得できる。
その瞬間には、たしかに心を支えてくれる力があります。

ただ、その安心は長くは続きません。
新しい状況が生まれ、また別のモヤモヤが湧いてくる。
つまり、言語化とは“完了”ではなく、“更新し続ける営み”と言えます。

もちろん、この循環そのものは悪いことではなく、以前から人はこうして自分を調整しながら日々を過ごしています。
けれど問題は、言葉にできたものを“真実そのもの”だと誤解してしまう点にあります。

言語化した瞬間、私たちはしばしばその言葉の枠に自分を押し込め、「これが自分だ」と信じてしまう。
その結果、本来もっと揺らぎがあり、多層的で変化するはずの自分を見失ってしまうことに繋がってしまうのです。

「わかる」とは何か

ここで改めて考えたいのは、「わかる」とは本来どういう状態を指すのか、ということです。

私たちが日常で「わかった!」と口にするとき、多くの場合それは、“自分の理解の枠に収まった”という意味にすぎません。
しかし、それがそのまま「世界を正しく把握した」ことを意味するわけではありません。

理解とは、実は“単純化のプロセス”でもあります。

複雑な現象を整理し、因果関係を見つけ、ひとまとまりの図として扱えるようにする。
そのことで把握しやすくなる一方で、細部の揺らぎや複雑さを切り捨ててもいるのです。

詩人ジョン・キーツの言う「ネガティヴ・ケイパビリティ(わからないまま耐える力)」は、この“単純化の誘惑に抗う姿勢”を指しています。

理解できないものを急いで判断せず、曖昧さの中にしばらくとどまること。
それは効率や即時の答えが求められる現代では、最も失われつつある力かもしれません。

「わかったつもり」が生む問題

「わかったつもり」は、思っている以上に日常のあちこちに潜んでいます。

たとえば人間関係。
誰かの言動を見て「この人はこういうタイプなんだ」と判断すると、私たちは安心します。
分類できると“理解できた気”になれるからです。

けれど、その瞬間に見えにくくなるものがあります。
相手が抱えている矛盾や、その日によって変わる表情、ふと現れる優しさや弱さ——そうした揺らぎは、ラベルの外側に置き去りになってしまいます。

本来の理解とは、一度判断して終わりではなく、相手の変化や沈黙を含めて関わり続けることです。
むしろ「まだわからない部分がある」という前提を残しておく方が、誠実な態度なのだと思います。

また、職場でも同じ構造があります。
業務では、物事を整理したり、フレームに当てはめたりすると効率が上がります。
ただ、その便利さと引き換えに、“まだ言葉になっていない違和感”を軽視しやすくなります。

たとえば会議で、説明は一通り筋が通っているのに、どこか引っかかる。あるいは、数字は良いのに、チームの空気が微妙に沈んでいる……こうした違和感には、言葉にしきれていない課題や、これから起こりうる問題の気配が潜んでいることがあります。

価値のある発見は、論理で説明できる段階よりも前に生まれます。「なんとなく変だ」「うまく言えないけれど気になる」という小さな感覚が、後になって重要な意味を持つことは少なくないのです。

つまり、違和感を切り捨てない姿勢そのものが、創造性や洞察の源泉と言えます。

効率や即答が求められる社会では、早く「わかったつもり」になることの方が得に見える瞬間があります。
けれど、その早さが、成長や発見の芽を静かに奪ってしまうのかもしれません。

MBTIブームに見る「安心の構造」

最近のMBTI(性格診断)の流行は、「わかったつもり」が生まれる仕組みを象徴しています。
性格をタイプとして言い表せると、人は自分や相手を理解したような手応えを得ます。
「私はINFJだからこうなりやすい」「相手はENTPだから仕方ない」—こう言い切ることで、摩擦や違和感を一旦“整理できた気持ち”になれるからです。

ただ、現実の人間は診断結果ほど単純ではありません。

人は日によって変わり、誰と一緒にいるか、どんな状況に置かれているかによっても振る舞いが変わります。
つまり MBTI は“理解のための地図”にはなっても、“現実そのもの”ではありません。
地図を頼るあまり、実際に目の前にいる相手の変化やニュアンスを見なくなってしまうこともあります。

分類は便利です。
けれど便利さゆえに、「地図のほうが正しい」と錯覚しやすい。
その瞬間、私たちは相手の揺らぎや例外、成長の余地を拾えなくなってしまいます。

日常の中でも、こうした“地図と現実のズレ”はあちこちで起きています。

  • 「あの人は外向型だから、こういう場が得意なはず」と決めつけて話を聞かない
  • 「自分は内向型だから、これは苦手」と経験する前から可能性を閉ざしてしまう
  • 相手の変化を“タイプじゃない”と切り捨ててしまう

MBTI 自体に罪はありません。
ただ、分類を拠り所にした瞬間、人はしばしば「見ているようで見ていない」状態に陥ります。

これは言語化にも同じ構造があります。

言葉で整理すると安心できますが、その言葉が“真実”だと信じ込むと、言葉の外側にある豊かなグラデーションが見えなくなる。
言葉に頼りながらも、言葉で捉えきれない領域を感じ取ること。
その両立が、結局もっとも健全な知性のあり方なのだと思います。

「言葉にできないもの」を抱えるということ

言語化は、思考を整理し、他者と共有するうえで確かに有効な手段です。

ただ、すべてを言葉で説明しようとすると、むしろ見えなくなってしまうものもあります。

そのため、大切なのは言葉にしたあとに一度立ち止まり、「この言葉では拾いきれていない部分があるかもしれない」と意識することです。

言葉にすることで輪郭が生まれ、沈黙の中でその輪郭の外側にあるものがゆっくり浮かび上がってくる。言語化と沈黙、そのあいだを往復することで、思考は少しずつ深まっていきます。

「わかる」と「わからない」のあいだに身を置きながら、それでも考え続ける――こうした不安定さを受け入れられることこそ、複雑な時代を生きる私たちに求められる態度ではないでしょうか?

おわりに

言語化のブームは、「自分を理解したい」「他者を理解したい」という人々の願いの表れでもあります。

その動き自体は、とても自然な衝動だと言えます。
ただし、言葉はすべてを扱えるわけではありません。

言葉で整理できることと、どうしても言葉にならないまま残る部分。理解できる領域と、理解しきれない領域。――その両方を抱えながら生きていくことこそが、成熟したあり方なのだと思います。

言葉にして整えることと、言葉にならないものをそっと抱えておくこと。その往復の中で、私たちの思考は静かに深まり、日々の景色も少し豊かになります。

言葉の力と、言葉を超えた領域のどちらも味方にしながら、軽やかに歩んでいけたら素敵ですね。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

30代リーマン。海と山に囲まれた田舎でゆったりライフを満喫……するはずが、大量発生したアリと日々バトル中。文芸全般、お香や精油などの香り物、石や天然石、アンティーク家具などが好き。だけど、三度の飯のほうがもっと好き。最近はダイエット兼ねて、毎日のお散歩が日課です。

目次