言葉にできないものと、言語化ブームの裏側

言葉にできないものと、言語化ブームの裏側

ここ数年、「言語化」という言葉をよく耳にします。
SNSでも、ビジネスの現場でも、「思考を言語化する」「感情を言語化して整理する」といった表現を目にしない日はないほどです。

人は昔から、言葉を使って世界を理解し、自分の位置を確かめようとしてきました。
けれど、ここまで「言語化」という行為そのものが注目されるようになったのは、近年特有の現象かもしれません。

なぜ、いま「言語化」がブームになっているのでしょうか?
その背景には、複雑で不確実な社会を生きる私たちの「安心への欲求」が見え隠れします。
言葉にして整理することで、世界や自分を“把握できた気がする”——それは一時的に心を落ち着かせてくれる行為なのです。

目次

言葉で切り取るということ

言葉にすることで、私たちは思考や感情を他者と共有できます。
曖昧だった感覚を形にすることは、確かに知的な行為です。

けれどその一方で、言葉で切り取った瞬間に、それは「言葉の範囲」に閉じ込められてしまうという側面もあります。

たとえば、「寂しい」という言葉を使ったとき、私たちは自分の中にある微妙な感情の揺れを一言で要約しています。
しかし、実際の「寂しさ」は、懐かしさや孤独、安心や不安が入り混じった複雑な感情の集合体です。
言葉にすることで相手には伝わりやすくなる一方で、その“グラデーション”は失われてしまうのです。

ヴィトゲンシュタインの指摘

哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の最後でこう書きました。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」

彼は、人間が言葉で語れるのは“事実”の領域に限られると考えました。

つまり、言葉で描ける世界は、世界のほんの一部にすぎない。
「語りえぬもの」——それは美しさや倫理、意味のように、数値化も説明もできない領域のことです。

この言葉が現代でも引用され続けているのは、私たちがいま、まさに「言葉にできない領域」を軽視しがちだからかもしれません。
効率や再現性を求める社会では、“説明できないこと”がしばしば軽んじられます。
けれど実際には、人生の豊かさや人間関係の深さは、そうした「言葉にならない部分」の中にこそ宿っているのです。

言語化が流行る理由

それでも、なぜ私たちは「言語化」を求めてしまうのでしょうか。
その背景には、社会の構造的な変化があります。

情報量が爆発的に増え、SNSでは誰もが意見を表明できるようになりました。
企業では「伝える力」「発信力」「論理的思考」が重視され、個人にも同様のスキルが求められます。
こうした環境では、「自分の考えを明確に言える人」が評価されやすくなります。
結果として、「言語化できない人」は不安を感じ、「言語化すること」が目的化していくのです。

もう一つの要因は、変化の速さです。
何が正しいかがすぐに入れ替わる時代に、人は“理解の足場”を失いがちです。
言語化は、混沌の中で自分を保つための一時的な秩序の回復行為なのです。

言語化の「安心」と「限界」

モヤモヤした感情を文章にしたり、誰かに話したりすることで、私たちは自分を理解できた気持ちになります。
言葉によって曖昧さが輪郭を持ち、「これが自分の本音だ」と感じられる。
それは確かに救いの瞬間です。

ただし、その安心感は長くは続きません。
新しい状況が生まれ、また別のモヤモヤが生まれる。
つまり、言語化は“完了”ではなく、“更新”の連続です。

このこと自体は悪いことではありません。
むしろ、人はこうして自分をメンテナンスしながら生きているとも言えます。
ただ、問題は「言葉にできたもの=真実」と誤解してしまうことです。
言語化した瞬間に、私たちはしばしば“言葉の中に閉じ込められた自己”を信じ込んでしまう。
その結果、本来の多層的な自分を見失ってしまうことがあります。

「わかる」とは何か

ここで立ち止まって考えたいのは、「わかる」とは何を意味するのか、ということです。
多くの場合、私たちが「わかった」と言うとき、それは“自分の理解の枠に収まった”という意味です。
しかし、それは「世界を正しく把握した」こととは限りません。

理解とは、実は“単純化のプロセス”でもあります。
複雑な現象を整理し、因果を与え、図式化する。
それによって把握しやすくなる一方で、複雑さの一部を切り捨ててもいる。

詩人ジョン・キーツが言った「ネガティヴ・ケイパビリティ(わからないまま耐える力)」は、
まさにこの“単純化の誘惑に抗う力”です。
理解できないものをすぐに判断せず、曖昧さの中にとどまる勇気。
それは、いまの社会で最も失われつつある力かもしれません。

「わかったつもり」が生む問題

この「わかったつもり」は、日常のさまざまな場面で顔を出します。

たとえば人間関係。
誰かの言動を「この人はこういうタイプだから」と分類すると、安心できます。
しかしその瞬間、相手の中にある矛盾や成長の余地、揺らぎを見えなくしてしまう。
人を理解することは、決して“正解を当てること”ではありません。
むしろ、わからなさを含んだまま関わり続けることのほうが、よほど誠実です。

職場でも同じ構造があります。
論理的な整理や「フレーム化」は業務を効率化しますが、
同時に、“まだ言葉になっていない違和感”を軽視してしまいがちです。
けれど、本当に価値のある発見や革新は、その違和感の中から生まれるものです。

MBTIブームに見る「安心の構造」

最近のMBTI(性格診断)の流行も、この構造をよく表しています。
タイプ分けによって自分や他者を説明できると、人は安心します。
「自分はINFJだからこう」「相手はENTPだから仕方ない」と言えば、摩擦を整理できるからです。

けれど、実際の人間はそんなに単純ではありません。
人は日によって変わり、関係性によっても振る舞いが変わります。
つまり、MBTIは“理解の地図”にはなっても、“現実そのもの”ではない。
地図と現実を混同した瞬間、私たちは相手を見ることをやめてしまうのです。

分類は便利な道具ですが、道具を真理と誤解してはいけない。
言語化も同じです。
「言葉で整理すること」は必要ですが、「言葉で定義しきれないもの」を感じ取る感性を失わないことが、バランスの取れた知性だと思います。

「言葉にできないもの」を抱えるということ

言語化は、思考を整理し、他者と共有するための有効な手段です。
しかし、すべてを言葉で説明しようとすると、かえって見えなくなるものもあります。

大切なのは、言葉にしたあとに立ち止まり、「この言葉では拾いきれていない部分があるかもしれない」と自覚すること。
言語化と沈黙、そのあいだを往復することで、思考は深まります。

「わかる」と「わからない」のあいだで揺れながら、
それでも考え続ける。
その不安定さを受け入れることが、複雑な時代を生きる私たちに必要な態度ではないでしょうか。

おわりに

言語化のブームは、人々が「自分を理解したい」「他者を理解したい」と願っている証でもあります。
それ自体は、とても健全な衝動です。
ただ、言葉は万能ではありません。

言葉で整理できることと、できないこと。
理解できることと、できないこと。
その両方を抱えたまま生きていくことこそが、本当の成熟だと思います。

言葉にして整えることと、言葉にならないものを感じ取ること。
その往復の中に、私たちが「考える」という営みの本質があるのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

30代リーマン。海と山に囲まれた田舎でゆったりライフを満喫……するはずが、大量発生したアリと日々バトル中。文芸全般、お香や精油などの香り物、石や天然石、アンティーク家具などが好き。だけど、三度の飯のほうがもっと好き。最近はダイエット兼ねて、毎日のお散歩が日課です。

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